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フェラーリ・ミニカーコレクションIV 配列情報 その2

京商・サークルK・サンクスの「フェラーリ・ミニカーコレクションIV」配列情報の続きですが、もう遅すぎてあまり役には立たないでしょうね。^^;;

ディーノGTS

流石に人気のシリーズだけあって京商も力が入っていると見えて力作揃いでしたが、中でも上のディーノや330P4は傑作でしたね。
こうして写真で見るととても1/64とは思えません。
まぁ、中にはあれ?ってな出来のも有りますけどね。(w

F40ライト

肝心の配列情報二箱目は以下の通りです。
車体名の下は参考のシリアル番号です。
ちなみに、今回私が欲しかったのは「330P4」「ディーノGTS」「F40コンペ」「FXX」「275GTB」の5種類です。
それと「412」なんかもこのサイズではもう出ないでしょうから次点で欲しかった車種でした。

二箱目
F430チャレンジ-赤14
AO2498NI
599GTB-黒
AP9025ZH
ディーノGTS-黄
AO5432OG
599GTB-赤
AP9694ZI
330P4-赤21
AO5431NQ
360GTC-黄
AO7613OQ
412-赤
AO8387NM
512TR-紺
AP8056ZM
275GTB-黄
AP4264NT

512TR-赤
AP8056ZM

F40コンペ-赤
AO8931OG
330P4-赤
AO0075NL
FXX-紺
AO2181ON

ディーノGTS-黒
AO4916NW

360GTC-赤
AO7613OQ
FXX-黄
AO8294ND
F430チャレンジ-黒
AO2498NI
F40コンペ-黒
AP1724ZL
412-黒
AO3956NW
275GTB-銀
AP0344ZM

次が有るとしたらF1以外のレーシングカーや古いロードカーをもっと入れて欲しいんですが、無理でしょうねぇ。^^;;
しかしこのシリーズ、サークルK・サンクスのみで1回きりの販売ってのは勿体ないですし、地域によっては店舗の無い場所もあるそうですからサークルK・サンクスでの販売から有る程度の期間を置いてからでも一般販売して貰いたいですよね。

512TR

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【2007/06/22 01:47】 | ミニカー イタリア車 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
フェラーリ・ミニカーコレクションIV 配列情報

仕事が妙に忙しい上に更にダウンしてしまって、すっかり久しぶりの更新になってしまいました。
京商・サークルK・サンクスの「フェラーリ・ミニカーコレクションIV」が昨日発売になりましたね。

330p4

今回もトキメキモールで2箱予約して購入してみました。
今月はスーパー忙しいので予約しておいて大正解でした。

パッケージ

何はともあれ、折角ですから購入分の配列を公開しておきます。
と、いってもまだ一箱しか開封していないので一箱分だけです。
参考に車体名のしたにシリアル番号も入れておきますが、コレクション3の時と違って関連薄そうですね。

一箱目
F40コンペ-黒
AO3807NF
275GTB-赤
AO8000OO
ディーノGTS-赤
AO5432OG
F40コンペ-黄
AO8462NU
FXX-黄
AP4254ZM
330P4-赤
AO9764NM
412-黒
AP2950OJ
512TR-紺
AO95940G
330P4-赤21
AP0328ZI

599GTB-赤
AO2337OD

ディーノGTS-黒
AP9311ZK
275GTB-黄
AO4699OI
F430チャレンジ-赤14
AO6293OP

360GTC-赤
AP2670ZK

F430チャレンジ-赤
AO6644OE
599GTB-紺
AO0642NW
412-銀
AO5362NK
FXX-赤
AO1251NJ
512TR-黒
AO0614OK
360GTC-黒
AO2770NH

表の下側が実際のBOXでは手前側になります。
もう一箱分も明日か明後日には掲載させていただきますので、少々お待ちくださいませませ。

FXX

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【2007/06/20 04:21】 | ミニカー イタリア車 | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
フィアット 500の誕生とイタリア参戦前夜 1936-1940

世界恐慌の後、アメリカは自らの国力を活かしたニュー・ディール政策を実施、イギリス・フランスなどは外部の影響を排する植民地とのブロック経済をつくり対応しました。
しかし、大規模な政策やブロック経済を実施する経済力の無いイタリア、ドイツ、日本などは経済力増強と資源確保を求めて対外侵略政策へ傾いて行きます。

fiat500トポリーノ 01

1935年10月イタリアはついにエチオピアへの侵攻を開始します。
この侵攻にはフィアットなどの大資本は反対でしたが、すでに行き詰ってしまっていた中小資本層の支持により強行されました。
当初イタリアのドイツへの接近を恐れ宥和政策をとっていたイギリス、フランスはこの行動を看過していましたが、短期戦で終わると思われた戦闘は半年以上に及びイタリア軍はハーグ協定で禁止された毒ガス(マスタードガス)の使用に踏み切りました。
その結果、世界世論は一斉にイタリア非難へと変わり、唯一ドイツのみがイタリアへの援助を続け、両者の間は急速に接近して行く事となります。

パッケージ

やがて、イタリアはスペイン内乱へのドイツとの共同介入を経て1937年に日独伊三国防共協定を結ぶ事となりますが、ムッソリーニ自身は生来のドイツ嫌いだったそうです。(当時のイタリア人はドイツ嫌いが多かったそうです)
また、バルカンへの経済進出を望む財界もバルカンへの野望を隠そうとしないドイツとの協定は反対でイギリス・アメリカ寄りの政策への転換を要望していました。
教皇庁も人種差別政策をとるナチを非難しており、ドイツとの同盟はムッソリーニへの支持の低下にその後繋がって行く一因となります。

fiat500トポリーノ 02

この当時のイタリアの経済政策で代表的なのがIRI(産業復興公社)の設立です。
1933年に設立されたIRIはイタリアの三大銀行の経営参加資本の管理・清算を引き継ぎ、莫大な工業株式を所有する事となります。
開戦までに工業資本の約4分の1を所有する事になるこの公社によって政府は全産業を統制し、戦争経済のために再編する事が可能な筈でした。
しかし、実態としては任命された民間企業出身の理事にその経営は握られており、フィアットなどの大資本が超え太るためだけに利用され全体としての計画は全くと言っていいほど進展しませんでした。
つまり、掛け声だけでイタリアの軍備は進んでいなかったのです。

fiat500トポリーノ 03

そんな世相の中、1936年に登場したのが「フィアット 500」トポリーノです。
バリッラの成功でイタリアの大衆車市場を大きく開拓したフィアットでしたが、アニェッリはヨーロッパの中でも低所得層が多いイタリアではよりイニシャルコストの安い車が必要だと感じていました。
それに取りかかったのが以前の自動車部門の設計主任で当時は航空機部門のエンジン設計室長だった「アントニオ・フェッシア」(後にランチアでフラビア、フルビアの設計を手がけます)です。
そして、その部下でフィアット500のエンジンとシャーシーの設計を担当したのが「ダンテ・ジアコーザ」です。

fiat500トポリーノ 04

フィアット500の開発は自動車として最小限界に挑む事でした。
当時本格的な小型車のエンジンの最小サイズは750cc程度、全体のレイアウトなどは大型車をそのままスケールダウンしたものでしたが、フィアット500はミニマムカーに最適化されたレイアウトを採用した初めての小型大衆車でした。
その点でフィアット500はヨーロッパ小型大衆車の歴史上「オースチン・セブン」「MINI」などと並ぶエポックな存在といえると思います。

fiat500トポリーノ 05fiat500トポリーノ 06

シャーシは一般的なラダーフレームですが軽量化の為、各所に孔が開けられ、長さもリアタイヤ手前までしかありませんでした。
エンジンは背の低いサイドバルブ水冷4気筒を前輪車軸より前に搭載し、その背後にラジエーターを背負うという極端な前置きですが、コレによって乗員の足下に余裕を生み出しました。
2座に割り切った為、小型車ながらも居住性は良く、車重も535kgに抑えられました。

fiat500トポリーノ 07

低価格の小型車ながらも500には3、4速にシンクロ・メッシュのギアボックス、前輪独立懸架、油圧ブレーキという上級車譲りのメカニズムを搭載し、ボディは1500と同系の空力に優れたスタイリングを採用しています。
特に油圧ブレーキは他のヨーロッパ車の大半がメカニカル式のブレーキを使っていたのに比べると破格の装備といえるでしょう。
569cc13HPという非力なエンジンにも関わらず、軽量で空力のよいボディのお蔭げもあって最高時速は85km/hと当時としては十分な速度を得る事ができ、燃費も16.7km/lと優秀なものでした。

fiat500トポリーノ 08

価格は計画の当初では5,000リラ程度を考えていましたが、高度なメカニズムを採用した結果8,900リラとなってしまいましたが、それでもバリッラより2,000リラ以上安く、当然の如く500は大ヒットとなました。
イタリア中で愛されたFIAT500は、その愛嬌のあるマスクと小さいながらも機敏に動く様からハツカネズミ「トポリーノ」という愛称で呼ばれる様になりました。
実際に発売されると2人乗りのトポリーノに対して4~5人を乗せて使ってしまう人が多く、そういった想定外の使用方法に対してはリアの剛性不足が見られた為、その対策として4万6千台を生産した時点でフレームはリアエンドまで延長され、リアスプリングも強化、メインフレームにもXメンバーが追加されるなどの強化が施されています。
この強化版のトポリーノは12万2千台が生産されました。

シムカ5 01

バリッラとトポリーノのヒットにより、いよいよ生産能力の拡大が必要となったフィアットは同年ミラフィオーリ工場の建設に着手する事となります。
100万平方メートルという広大な敷地を持つこの工場は、拡張性に欠けたリンゴット工場の垂直式組立て方式ではなく、より一般的な平屋の水平形工場でした。
ミラフィオーリ工場は1939年に完成し、2万2千人の工員が2交代制で働くフィアットの新たな中核工場として稼働を始めました。 

シムカ5 02

フランスに設立されたシムカでも1936年にトポリーノは「シムカ5」として発表、発売されます。
シムカ5の発売はその商品力に驚異を感じたルノーから1年の発売延期要請が入ったほどですが、シムカはこれを無視して発売を強行します。
ルノーの危惧通り、シムカ5はフランスでもヒットし39年までに6.万5千台を販売、翌年発売されたヌオーバ・バリッラのシムカ版である「シムカ8-1100」と合わせてシムカをフランス第4位のメーカーにまで躍進させました。

シムカ5 03

今回使用しているフィアット500のモデルは前回のバリッラと同じデアゴスティーニの「イタリア自動車100周年」シリーズの1点です。
原型制作はブルムだと思われますが、製作が新しいせいか私の持っている他の同社製トポリーノやシムカ5に比べて塗装が少し丁寧な気がします。
コチラのモデルも全体のバランスはまずますですが、ヌオーバ・バリッラと同じくフロントグリルからボンネットにかけてのラインがやや直線的すぎて流線型デザインの良さをいささか損なっている部分があるのは否めません。
ワイパーが1本なので、このモデルはトポリーノのA型だと思われます。
トポリーノはこういった最廉価の車でもツートンカラーでお洒落に仕上げているのがイタリアらしい所でしょうか。

シムカ5 04

もう一つのモデルはトポリーノのフランス版である「シムカ5」のデリバリーバン仕様のフォルゴネットです。
ブルム製のこのモデルはシムカ5の広告車の様で車体には「300kg積めます」とか「5リッター以下で100km走れます」とかこの車の経済性を謳う宣伝文句が書いてある様です。
モデル化された車体はワイパーが2本になっていますので、1948~49年度のみ生産されたエンジンをOHV化したB型仕様だと思われます。(パッケージには1936年って書いてあるんですが。^^;;)
トポリーノB型には他にも4人乗りに拡張されたワゴンモデルのジャルディニエラもありますが、ジャルディニエラの後部ハッチは1枚扉で窓有りなのに対してフォルゴネットは観音開きの2枚扉で窓がありません。

シムカ6 05シムカ6 06

ドイツは1939年8月に独ソ不可侵条約を締結、翌9月にはポーランド侵攻を開始し第二次世界大戦が開戦します。
ドイツと同盟を結んでいたイタリアは開戦準備の遅れを理由に当初は中立を保ちます。
この商機を逃すアニェッリではありません。シムカを通じてフランス軍からは2200台の軍用トラックの発注を受け、イギリスからは航空機用エンジンを販売、スペイン、ハンガリー、日本など敵味方問わず様々な製品を外国に輸出しました。

シムカ6 07

イタリア国内で一番の生産能力を持つフィアットがその様な状態ですからもちろんイタリア軍の軍備はあまり進展しませんでした。
フィアットとしても実際に他の国とイタリア軍の軍備の比較を行いましたが、結果は最悪でした。
アニェッリは戦争の準備が遅れ体制が整っていない状態ではイタリアの参戦は無いだろうと考えていた様です。

シムカ6 08

しかし、アニェッリの期待に反してドイツのフランス侵攻が順調だった事からムッソリーニはこの大戦は早期終結するだろうと考え、周囲の反対を押し切り1940年6月にイギリス・フランスに対して宣戦布告を行います。
そして、それはアニェッリとフィアットに最大の危機をもたらす事になるのです。

FIAT500 & シムカ6

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【2007/04/28 03:03】 | ミニカー イタリア車 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
フィアット ファシストの勢力拡大とバリッラ登場 (1929-1937)

ティーポ501、509の成功によりイタリアにおける自動車の大衆化を大きく進めたフィアットはグループ各社(特に軍需関連)の輸出も好調で1926年にはその売上げはヨーロッパの機械産業各社の中で最高に達します。
その後政府のリラ防衛政策により輸出が落ち込んだものの、それに耐えきれなかった他の中小企業を吸収しつつ益々の発展を遂げていきます。

フィアット508バリッラ

一方ファシズム政権は1925年には首長の権限大幅強化、翌年には政府の立法権の確立とそれに基づきファシスト党以外の政党を非合法化、1928年末にはファシズム大評議会が国家の最高機関に昇格とムッソリーニの独裁体制を着々と築いていきました。
フィアットは政府の産業振興策を利用しながらも一歩離れたスタンスを維持していましたが、それを変化させる事態が続けて起こります。

一つ目はフォードのイタリア進出です。
アメリカのメーカーとしていち早くヨーロッパ進出を果たしたフォードはイギリス、ドイツ、アイルランドの工場に続いてイタリアにも工場建設計画を立ち上げます。
その規模、年間生産台数20万台。当時のフィアットの年間生産台数が約4万台ですから如何に大規模な計画だったかが分かります。

パッケージ

フォード全体での年間生産台数は200万台を越えていましたから資本の面でも技術の面でもフィアットに対抗する手段は無く、巨象の前のネコ(蟻やネズミよりはマシって程度)も同然でした。
様々な政治的対抗手段が不発に終わってしましい、いよいよ行き詰まったアニェッリはムッソリーニに直談判に訴えます。
それは見事に功を奏し工場建設の認可は取り消され、イタリア市場は外国のメーカーに対して閉ざされる事となりました。

フィアット508 01

二つ目はイタリアの統一以来続いていた教皇庁との諍いを解決し、相互承認しあうラテラーノ条約を締結した事です。
イタリアでは19世紀の国家統一時までは教皇庁が独自の領土が所有していましたが、統一時にその所有は認められず王国が教会の世俗的な権利を多く廃止したため、教皇庁側は逆に王国の存在を認めず、以後両者の対立が続いていました。
ムッソリーニは教皇庁に対しヴァチカン市の領有権を認め、没収したその他の財産については違約金を払い、イタリア国内での司祭の特権を認めるなどの譲歩を行い和解を実現しました。
この結果国内の支持率は急上昇し、条約締結直後の国民投票では賛成票が98%を超えたそうです。

フィアット508 02

最後の3番目は1929年にアメリカに端を発した世界恐慌です。
第一次世界大戦以降のヨーロッパの産業はアメリカからの資本投下に支えられている状況でしたので、アメリカで恐慌が起き、その資本が引き上げられると各国の経済は破綻し深刻な不況に陥りました。
イタリアも例外ではなくフィアットの売上げは半減してしまいます。
アニェッリは再びムッソリーニに直談判し、保護関税の再度引き上げ、ガソリン税の引上げ、営業自動車に自動車税廃止、道路交通網の整備などを実施して貰い、約2年後にようやく一息つく事ができる状況となりました。
これらのムッソリーニへの借りとその支持率の高さからアニェッリもついにファシスト支持に回らざる終えず、自身もファシスト党に入党し、フィアットの本社前にはムッソリーニを称える金文字が飾られたのでした。

フィアット508 03

大恐慌からの復帰の目処が立ち始めた1931年、フィアットは乗用車では「515」「522」「524」の3機種を発表、商用車では初のディーゼルトラック「632N」「634N」と初の農業用トラクター「700C」と積極的なニューモデル攻勢にでます。
そして翌1932年にフィアットは戦前の大衆車での最高傑作車といわれる「ティーポ508 バリッラ」を発表・発売します。
前年発表の「515」の半額近い安低コストなこの小型車は、995cc4気筒サイドバルブ、出力20HP/3400rpmというという小型エンジン搭載で4輪油圧ブレーキという以外はこれといって優れたメカニズムは持っていませんでしたが、簡潔故に安く壊れにくく当時のヨーロッパでも「最も金のかからない車」と言われました。

フィアット508 04フィアット508 05

特筆できる性能が無い変わりに全体のバランスが良く扱いやすい車体で最高速度も85km/hと当時の道路事情には十分な速度が出、燃費も12.5km/lと優秀でした。
故障したとしてもシンプルな部品は安く、修理自体も簡単でした。

フィアット508 06

この車はもちろん大ヒットとなり1937年までの約5年間に11万3千台が生産される事となりました。
この車に付けられた「バリッラ」というサブネームは元々は「悪戯っ子」というような意味も持つイタリア語ですが、この場合は当時のファシスト党の青年エリート育成組織に付けられた名称で「勇敢な若者」という意味になるのだそうです。
このネームが付けられている辺り、当時のフィアットとファシスト勢力の力関係が伺えます。

508バリッラ 07

1934年に登場した「508S バリッラ・スポルト」は軽い2座のスパイダーボディをまとったスポーツカーです。
エンジンにはOHVのコンバージョンキットが組み込まれており出力36HP/4400rpmまでパワーアップ、790kgという超軽量なボディとの組合わせでトップスピードは110km/hを記録しました。
同時期の英国製ライトスポーツと比較しても優れた運動性を発揮し愛好家の人気を博しました。
1,000台ほどしか生産されなかったバリッラ・スポルトですが、現在でもクラシックカーレースなどで元気な姿を見る事ができます。

508c ヌオーババリッラ 01

同じ1934年にフィアットは「エンリコ・ピゴッツィ」と共同出資でフランスに「シムカ」を設立します。
フランスも大恐慌以来自動車に禁輸的関税を課していましたが、シムカは関税のあまりかからないパーツとしてフィアット車を輸入し自社でアセンブル、フランス車として販売を開始したのです。
その初期の主力となったのが508のシムカ版である「シムカ・フィアット 6CV」で、フランス市場でもこの車は大歓迎されたのでした。

508c ヌオーババリッラ 02

1937年にはバリッラも初のフルモデルチェンジを受け「508C ヌオーバ・バリッラ1100」となります。
モデルチェンジといっても先代との共通点はエンジンの基本構造くらいで、基本的な成り立ちはむしろ1935年に発表された先進的なセダン「フィアット 1500」に類似しており、X型バックボーンフレーム、前輪独立懸架、モダンな流線型ボディなどを継承しています。
特にヨーロッパの量産車としていち早く空洞設備を使用し実現した空気抵抗の少ないボディデザインは航空機部門も持つフィアットならではと言えるでしょう。
前述の1500とこの508C、そして次回登場予定の500はこの当時のヨーロッパ大衆車としては間違いなく最も進んだ設計を取り入れてかつ最も低価格で手に入れられる車でした。

508c ヌオーババリッラ 03

ヌオーバ・バリッラにもスポーツモデルがあり、コチラは「508C MM」というクーペモデルです。
横から見ると翼型断面を持つ当時最先端の空力ボディを纏った508C MMは1938年のミッレ・ミリアで平均速度112km/hというクラスレコードを記録してクラス優勝を飾りました。
508Cヌオーバ・バリッラはマイナーチェンジを繰り返しながらも1953年までと長期に渡って生産された事からバッリラの意味にかけて「万年青年」と呼ばれる事もあります。

508c ヌオーババリッラ 03

「ティーポ508 バリッラ」のモデルは「デアゴスティーニ」が本拠のイタリアで展開していた「イタリア自動車100周年」シリーズの1点です。
この車種の原型の制作はRIOでしょうか?
モデルは508の前期型でオプションのリアトランクを装備しています。
全体の雰囲気は悪くはないですが、フロントグリルがやや幅が狭いのとライトがやや小ぶりなのでマスクが多少違って見えますが、ネームバッジなど細かいところまでキチンと再現されていますし、ディティールもカッチリと表現されています。

508c ヌオーババリッラ 04508c ヌオーババリッラ 05

「508Cヌオーバ・バリッラ」のモデルはブルム製でバリッラ1100の初期型イタリア軍仕様です。
まぁ軍仕様といっても迷彩塗装とフラッグポールを装備しているだけですが。^^;;
コチラのモデルも全体のバランスはまずますですが、フロントグリルからボンネットにかけてのラインがやや直線的すぎてバリッラ1100の初期型らしい流線型デザインをいささか損なっています。
逆に側面のラインは丸みが有りすぎでステップの部分をやや圧迫しています。

508c ヌオーババリッラ 06

こうやって細かいところに点数をつけていくとブルムはやや辛い部分もありますが、他には無い車種をモデル化している事もあって個人的には好きなブランドの一つです。
というか、フィアット、シムカを中心としてうちでは一大勢力にいつの間にかなってます。(w
ブルムの古いモデルはグラス部分の透明度が今一つですが、分解して軽くコンパウンド掛けると格段に綺麗になりますね。

508c ヌオーババリッラ 07

バリッラの成功に続き1936年にはダンテ・ジアコーザ設計による更に小型のトランスポータ「フィアット 500」が登場しフィアットは更なる成功を収めますが、イタリアは第二次世界大戦に向けて着々と歩みを進めていおり、その時代をフィアットがどう対応したのかを次回は書かせていただきたいと思います。

新旧バリッラ

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【2007/04/25 01:00】 | ミニカー イタリア車 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
フィアット 創生期 (1899-1919)

メフィストフェレス 01

さて、今回から何回か京商・サークルK・サンクスの「フィアット・ランチャ・ミニカーコレクション」に手持ちのモデルを加えてフィアットの歴史を簡単に辿って行きたいと思います。
それにしても、現在京商・サークルK・サンクスのモデルの情報が欲しくって検索掛けて来られる方が多いのにそれを空かして全然関係ないモデルの話をしだすとは我ながらなんちゅうかアレですね、すみません。

メフィストフェレス 02

FIATとはファッブリッカ・イタリアーナ・アウトモビーリ・トリノ(Fabbrica Italiana Automobili Torino トリノの自動車製造所)の略です。
その名の通りトリノで今から100年以上も前、19世紀末の1899年7月に設立されました。
設立時はブリケラージョ伯爵を中心に9人の発起人が集まり80万リラの資本金を元手にスタートしました。
その発起人の一人にジョバンニ・アニエッリが居ました。

メフィストフェレス 03

アニエッリは他の8人が貴族や弁護士など当時の上流社会のきらびやかな人々だったのに比べると地方の農場経営者に過ぎず、社会的地位、資本力ともに発起人の中では劣る存在でした。
しかし、他の8人が当時上流階級の趣味として流行り出していた自動車レースに自身の車を出走させたいと思い集まったのに対して、当時ヨーロッパの中では著しく工業化が遅れていたイタリアにあって、アニエッリは本格的な産業としての自動車メーカーを立ち上げしたいと思っていたのが違っていたのです。

アニエッリは先頭に立って計画を推し進め、その年早くも同社最初のモデル「3・1/2hp」を8台(もしくは10台)製作しました。
翌年にはその発展モデル「6hp」とそのレースバージョン「6hpコルサ」も登場、6hpコルサは「トリノ~アスティ都市間レース」や「ビチェンツァ~バッサーノ~トレビーゾ~パドゥア間レース」で優勝と華々しいデビューを飾りました。
ちなみに、当時のフィアットのステアリングを主に握っていたのは名ドライバー「フェリーチェ・ナッツァーロ」と後にランチアを設立する「ビンチェツオ・ランチア」でした。
フィアットのレーシングマシーンはその後も様々な車種が開発されてタルガ・フローリオやコッパ・イタリアなどで目覚ましい勝利をあげて行きフィアットの名声獲得に一役買っていきます。

メフィストフェレス 04

1902年にはアニエッリは代表権を持つ取締りに就任し、翌1903年には初めての船舶用エンジンを開発、アメリカに輸出も開始、この年発売され24/32HPはフィアットの市販モデルとして初めてオールスティール・シャーシを採用していました。
1904年にはトラックの出荷を開始するなどフィアットはその事業領域を順調に拡大していき、12月には株式市場への上場を果たします。
その後も順調に業績を伸ばしたフィアットの株は新しい産業への期待もあって、1906年には額面25リラのところ時価500リラで売買される程になりました。
そして、その1906年にアニエッリは一度会社を解散、資本金900万リラで再出発すると発表します。
その再編されたフィアットの筆頭株主にはアニエッリが収まり、2人の仲間と共に60%以上の株を抑えてしまいます。
つまりアニエッリは違法すれすれの手段でしたがフィアットをついに自分のものとしたのです。

メフィストフェレス 05

しかし、順調だったのはそこまでで、翌年には自動車関連の株は大暴落を起こし、一時1,800リラを超えていた株は17リラまで下がってしまい、粉飾決算を行っていた事なども暴かれてしまいフィアットは第一の危機をむかえます。
倒産は確実かと思われましたが、生産の合理化や外国での販路の確保などでなんとか急場をしのぐ事が出来ました。
翌年、粉飾決算や不当な配当に関してアニエッリらは背信行為で訴えられ役員総辞職に追い込まれますが、1909年には正式に復帰、裁判も当時の法律では株の操作という新しい犯罪を裁ききれず1912年に無罪判決となりました。

メフィストフェレス 06

一方レースの方は会社が危機的状況の1907年に黄金期を迎え、フェリーチェ・ナッツァーロが「タルガ・フローリオ」「カイゼル・プライス」「ACFグランプリ」というヨーロッパの3大レースを制覇しました。
余談ですが、この年イギリスのブルックリンズ・サーキットの開場式当日に行われた前座レースで日本から留学していた大倉喜七郎男爵がフィアットから購入した車で見事2位に入賞しています。

メフィストフェレス 07

さて、今回写真を掲載しているマシンはこの1907年に「ACFグランプリ」を制した「F=2 フィアット」を原型とするマシンです。
「F=2 フィアット」は1905年に設計された4気筒16286ccの「100HP」を130HP/1200rpmまでチューンしたマシンでした。
フィアットはイギリスの「S.F.エッジ」からの注文によりこれを更に18146ccにボアアップした175HP/1200rpmの「S.B.4コルサ」を制作します。
S.B.4は同氏のイギリス製レーサー「ネイピア」(6気筒、200HP)と1908年6月に対決しこれを破ります。
S.B.4はその後も英国にとどまりますが、第1次対戦後の1922年についにシリンダーが吹き飛んでしまいます。

メフィストフェレス 08

しかし、この車の生涯はそこで終わりませんでした。
翌年壊れたマシンを引き取った「サ-・アーネスト・エルドリッチ」により完全にリビルドされサーキットに舞い戻って来たのです。
壊れたエンジンの代わりは英国政府から買い取ったフィアットの航空用エンジン「A12Bis」(6気筒、21706cc、320HP/1800rpm)が搭載されホイールベースを延長、ボディもボートテールタイプに、足回りもフリクション・ダンパーが追加されるなどモダンな設計に一新されたそれは、他から魂(エンジン)を買ったモンスターとして誰と言うことなく「メフィストフェレス」と呼ばれる様になりました。

メフィストフェレス 09

サー・エルドリッチはメフィストフェレスで1924年に陸上速度記録に挑戦、236.340km/hという速度を記録しましたが、リバース・ギアを持っていないという理由で公認されず、後日ギア・ボックスを改造して再度挑戦し234.980km/hという世界記録を樹立しました。
その後1926年までサー・エルドリッチはこの車でレースに出場していましたが、その後は行方しれずとなってしまいます。
が、1947年に「C.E.ネイラー」がその残骸を発見、長い時間をかけて見事に修復し1961年にはイタリアに里帰りしたそうです。

メフィストフェレス 10

モデルはイタリアのブルム製でスケールは1/43です。
このモデルカーはブルム初期の傑作と評されているそうで、確かにシンプルなパーツ構成ながらも細かな処まで表現されていますしプロポーションも雰囲気良く捉えています。
それでいてブルム製らしいどこか暖かみのあるユルさも程よく残っています。
ブルムですから価格も安く手に入れられ満足度の高い買い物でした。

メフィストフェレス 11

話をフィアット本体に戻しますと1908年には初のタクシー専用車「タイプ1・タクシー」を開発フィアット初のモノブロック構造のエンジンをもつこの車はイタリアのみならずニューヨーク、パリ、ロンドンなどでも使用されました。
また、同じ年航空機用エンジンの製造も開始しています。
1910年にはラインアップを一新しタイプ1~6の6車種を一気に登場させています。

メフィストフェレス 12

そして1914年、第1次世界大戦が勃発しますがアニエッリはそれを好機として捕らえ積極的に軍用自動車や兵器を方々に売り込みそこで得た利益を自動車以外の分野につぎこみ会社を拡張して行きます。
その結果大戦はイタリアの企業番付で30位にしかすぎなかったフィアットは3位にまで大躍進したのです。
そして、戦争が終了して1年後の1919年にはオートメーション設備の整い広さ15万2千?、地上5階建ての大工場「リンゴット」を完成。(本格的な稼働は1921年から)
フィアットの前途は洋々に思えましたが、イタリアでも社会主義運動が急速な盛り上がりをみせ資本主義体制の転覆が声高に叫ばれるようになって行きます。

メフィストフェレス 13

テーマ:ミニカー - ジャンル:車・バイク

【2007/04/14 11:53】 | ミニカー イタリア車 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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